充溢

二桁のなると難しい。自分ルールをどうしたもんか。充溢なんて今の自分からはもっともかけ離れている言葉のような気がして皮肉!でも割りと最近僕の寿司欲は満たされに満たされている。充溢。

昨日ゴロゴロいろいろ考えたことがありまして、まぁ昨日の分の日記は既に書き終えてしまっていたのでそれをどうするでもなく断片的にそこらの紙へとメモしていたんですが、今日見てみたらほぼ解読できない。これはひどい

と、思ったんだけど、脳味噌のスイッチみたいなものがあるのかな、ゲシュタルト崩壊の反対というか、眺めていたら急にミミズの歩みみたいな線の集合が文字に見え始めまして、きちんと解読できました。

形に対する人間の認識って不思議ねぇ。

メモの写真でもあげようかと思ったけど恥ずかしいからやめよう。

そういう視覚もそうですが、他の感覚器官全ては自分の外界を知るためのものです。

聴覚、嗅覚、味覚、触覚。

それらで受容できないものもいくらでもあるんだけど、個人の感覚的にはそれで受容できるもので世界は構成されています。面倒な話は置いときますけれども。

僕の身体は僕の物で、それを維持しているのも僕である。身体が勝手に行ってるという部分がかなり強いですが、勝手であれ僕の意志が必要な部分であれ、僕の身体は僕に依存している。

その身体で、感覚器官が受容してくれる世界で生きています。

しかし、基本的に僕の内側に向いている感覚器官というものはほぼない。

例えば僕が大好きな寿司を食べる。

それは目で見てわかって鼻もも使いつつ、舌で味わって諸々の触覚による感覚とともに胃袋へ落ちていきます。

ここ。昨日の僕の気になるポイントはここ。

食道の途中あたりでしょうか。

それ以降、お寿司についての感覚やその所在は僕の認識の外へといってしまいます。己の腹の中にいるのに意識の外へ。

胃袋は喜んでいるのかもしれない。

いや擬人的に。そして僕はその胃袋の主人といって良いようなものなのに、それを知るすべを持たない。なんか不思議なもんである。そうでもないですかね。

そしてそれだけなら別に良いんだけども、その知覚外の働きによって知らぬ間に僕は生きているのである。

喉元通過したら次に僕がお寿司を知覚するのは便意としてである。

当たり前のことをなんだか不思議に思っているのだろうか。ひょへょへょ。

僕はアパートの大家さんでしょうか。

大家さんのおかげで部屋があってそれで住んでいる人は生活できているんだけども、住民が何をしているかなんて大家さんはしりません的な。んや、アパート自体なのかな。大家さんは脳味噌さん。

あ、「僕」というものの定義を曖昧にしたままだったので面倒なことになった。やめよう。

他にもメモは続いているんだけど、とっくの昔に1000文字は越えてしまっている。おっぺけ。やめようかねぇ。

まだミミズがかなりの数這い回ったあとがあるんですが、まだしっかり見てないけど、後ろになるほど解読の難解さが増しております。

ちらと見るだけで「麻原」だの「デビットカッパーフィールド」だの「べん髪」だのという単語が見える。五感からどう発展したらそういうことになるのか自分でもよくわかりません。

それにしてもカッパーフィールド懐かしい。昔よく見た手品の人。なんとかトライアングルから生還とかしてた人。

べん髪のべんてどんな字ですか。

鬱陶しいって漢字の鬱陶しさってすごいよね。本当に鬱陶しいんだろうなという感じがひしひしと。強い文字ですこと。

長々しすぎた。ぺっぺろー

あ、あと見返すとここらの日記ほんとに誤字脱字ひどいね。申し訳ないです。