ダム建設

また日が空いてしまいました。

この前の日曜日・月曜日の二日で、

学科の人々と遠出をして川で遊び、

山荘に泊まりバーべキューと飲み会をして騒いでまいりました。

男だけで。

地名には疎いのでどこの川かはわかりませんが、川での話。

みんなほんと大学生とは思えないようなハシャギ具合。

まず冷たい川に入るだけで大騒ぎ。

ゆっくり入ったり、飛び込んだり、投げ込んだり。

そこから流されたり、泳いだり、

フリスビーして、鬼ごっこをして、魚やら海老を捕獲したり。

何故か木からぶら下がっているロープを使って思い思いに飛び込んだり。

そんでまた投げ込んだり。

とりあえず叫んでみたり。

もうほんとやることが小学生。おっきい子供。たぶん8歳児くらい。

それが十数人も…

2時間ほど経ち、一通りみんなが遊び疲れて休憩していると、

いつの間にやら川の流れを変えてやろうという話に。

で、ここからが小学生とは違うところ。

やることが尋常じゃない。

はじめは、

「こっちに支流を作ってやろうぜ」くらいのものだったのが、

支流の勢いを増すために、石で防波堤らしきものを作っているうちに、どんどんエスカレート。

いつしか本流を封鎖するダムの建設が目的になる。

それも真剣に。

川幅はだいたい5~6mくらいで、

封鎖したいのはたぶん3mくらいだったと思う。

5.6人で大きめの石を両側からドンドン積んでいく。

男4人がかりでわざわざデカイ石を運ぶ。

それを繰り返しているうちに、

時間はどれだけ経ったかわからないが、

あからさまに辺りの様子が変わってくる。

水位が上がり、さっきまで川じゃなかった所を水が流れ、

勢いが増し、真っ直ぐに立っているのも困難になってくる。

それでも、

「すげぇ、流れ変わったんじゃない?」

「めっちゃ水位上がったって!!」

「自然に勝ってるんじゃね?」

「痛っ!指潰した!やばい感覚ねぇ!!」

などと怪我人がでるも止める気配は無し。

完全に逆コナン状態。

その後なんとか川を横切る石段は出来上がるも、

当然石の間を水が通って行く。

そこを小石や砂利で埋める。

水位が上がる。

石をたす。

勢いが増す。

補強する。

水位が上がる。

石を…

勢…

ほ…

s…

…ん…

……あ……あ…ん…

とかそんな繰り返し。

もう完璧に最初の川の見た目とは異なる姿になっている。

そんな、みんなが頑張って黙々と作業をしているなか、

突如紫ジャージの人は、極々フツーに飽きたのです。

はい!長い前フリでしたが、今日の本題はここからです。

紫ジャージが飽きて川岸に座っている目の前で、

作業を続けながら、

「俺ら自然に勝ったな!」

「いやぁ、人間の力はすごい!!」

とか言っている人たちを見て思ったのです。

あ、きっとこれが自然破壊の主な原因ではないかと。

おそらく自然に手をくわえ、変化させる・作り上げる、という作業に、

ほとんどの人間はやりがいに伴う達成感や勝利という気持ち、

または優越感といったものを感じるのではないだろうか。

男性のほうがこの気持ちは理解しやすいかもしれないが、

先の例のように、川に流れを変えることや、

野原に道を作る、土を削って階段にする、林に秘密基地を作る。

雪国ではかまくらや雪だるまを作る。

などといったことは、

子供の頃とても楽しかったし、やりがいがあったと思う。

そこには人間が自然をコントロールしている、

という一種の優越感が存在している気がする。

逆にそのように感じる動物は人間だけだろう。

人間が定住という生活様式になってからは、

環境を自らの生活に合わせて変えることで発展してきた。

木を伐り、田畑をつくり、川から水をひく。

いろいろな場面で自然との「調和」という単語があっても、

結局のところ見方を変えると、

人間による「支配」という形はいつの世も変わってはいない。

その考えのひとつの要因としては、

キリスト教の「すべては人間のために造られた」という考え方が、

非常に大きく関係しているだろうし、

世界に多大な影響力をもつ西洋の中心的なその考え方は、

「ペストの蔓延」という大失敗を見ても、

なんら改善はされず、産業革命で加速し、

現在になってはもう取り返しのつかないという形で、

様々な問題を起こし、自らの首を締めながら、

ありがたく完全に受け継がれている。

だんだん話が拡がって、よくわからなくなってきました。

特に強く言いたいことがあるわけではありません。

こんなことを思いました、それだけのことです。

物凄く中途半端な感じですみません。

整理ができたらまた足すかもしれません。

長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。