移植
臓器移植というものについて、
個人的にあまり良いものだとは考えていない。
自分が移植される場合について考えてみれば、
自分の内に他人の細胞を進んで取り入れてまで、
そこまでしてまで生きていたいとも思わないし、
重要な内臓器官の移植待ちの場合は、
自分に適合する人間が死ぬのを心待ちにしているわけだ。
それは何か感情として間違っているだろうと思ってしまう。
自分がもし死んだとしても臓器を提供するのは嫌だ。
脳死状態になったとして、
生命なんかを維持や延長はしてくれなくても良いから、
別に装置のスイッチは切ってもいいから移植には使われたくない。
延命処置は正直本人のためでなく、
周りの人間の為のものだと思うから其処はどうでも良いのだけれども。
今膨大な数の細胞で構成されている自分ではあるものの、
もとを正せばたった一つの細胞、受精卵だったわけで。
現状の自分と目に見えない受精卵だった頃の自分は結局同じ。
大事な心臓も、個人たり得る脳味噌も、
全然いらない耳たぶも、内側に曲がっている足の小指も。
もともとは同じ単一の細胞。
唯一の紛れもない自分のものを他人に譲るのもなんだし、
そういう統一された細胞の世界に別なものが入るのには強い違和感を感じる。
生命体として不自然じゃないかねぇ。
とは言え、これはあくまで自分個人の話で、
他人が移植を受けるということも理解できるし、
それで維持したい生活ないし人間関係があるというのもわかる。
とは言え、自分個人について言えば嫌なものは嫌なのだから仕方ない。
という考えのもと、ドナー登録もしていなかったし、
脳死状態になった場合の臓器提供の拒否という意思の表示もしてあった。
しかし、今は移植の数が足りないだとか何だとかで、
脳死状態になった人の家族の承認があれば移植できてしまうらしい。
意思表示が無意味じゃないか。死人に口なしってか。
僕は何でだか脳死状態になってしまったらしく、
そのままただこれ幸いと殺してくれればいいものを、
馬鹿な家族のせいで臓器はあらかた提供してしまい、
さらに何故かその後、
僕は手術台の上で目を覚ましてしまったようだった。
なんとなく、ああ自分は麻酔が効きにくいからかなぁ、
歯医者の麻酔もあんまり効かないんだよなぁ、
なんて的外れなことを考えながら、
叫び声を上げている医者を眺めながら考えてみる。
別段痛くはない。
しかし喉仏の辺りから、臍の少し下辺りまで見事に僕の身体は観音開き。
そして中身は空っぽ。さながら「らせん」の真田広之か。
とりあえず自分に「枝豆のカラ」というあだ名を付けてみる。
そのまま枝豆のカラは歩いて手術室から出て、
公衆電話から実家に電話し、
驚いて声もでない家族の誰かに一方的に文句を言って終話。
自分の着ている手術着(?)の薄い青と緑の中間色のような色は、
なんていう名前で表わせば良いんだろうか、
という事を考えながら公衆電話の隣にある自動販売機にて、
体に良さそうだからといういまさらな理由で、
小さい緑色の瓶にレモンの絵が描かれている飲み物を買い、
口から入って腹当りにボタボタと垂れるのその液体を眺め、
まるでマンガだな、ははは、俺は主人公その名も「枝豆のカラ」だぜ、
なんていう意味不明な感想。
カラは酒のつまみにもならないな。
此処で良いことを思い付いて服に着替えて勝手に外出。
病院の人は驚きすぎて引き留めることも出来ない。
向かった先は回転寿司屋。いくらでも食えるぜ。
味だけ楽しんでお腹いっぱいにはならないシステム最高だな、
とか考えながら皿の柄も気にせずひたすら食べる食べる。
腹から溢れて寿司が溢れて、
ワイシャツの内側に溜まったらトイレに捨てに行く。
好きなだけ食べる。また捨てに行く。
最強フードファイター。
そんなことを続けていたら、
80皿を積み終えたくらいで死んでしまった。
そのままあの世へ食い逃げ。
食い逃げに成功したあたりでこっちも起床。
美味しい良い夢でした。