性悪

説。だけどイーコイーコ。

良い子良い子良い子良い子良い子良い子良い子良い子。

「良い」の定義はなに。

頭の良い子。お行儀の良い子。聞き分けの良い子。都合の良い子。

ラララ。だけどイーコイーコ。

ボーっとしていたら、

懐かしい話をいくつか思い出したので、皆様に紹介しようかと。

別に僕自身の話では無いです。

今回は非常に長い日記になると思います。

かつ、長々書くのが面倒なのでコピペ多様になります。

事実かフィクションか。

そんなことはどうでもいい。

思考してみていただきたい。

個人的にはとても興味深く、

面白い(楽しいという意味ではない)と思うので、

暇な方は読んで頭の片隅にでも置いていただけたら幸い。

古い話なので知っている方も多々いるかと。

――――と矢印の中が引用部です。

――――↓

「犬の餓死」

 ある芸術家が餓死寸前の犬を展示して「犬の餓死」という芸術を発表した。しかもこれはまだ最初の布石に過ぎず、私が表現しようとする芸術の準備段階だと宣言した。「犬の餓死」だけでも非人道的なのに、それが準備段階に過ぎないと宣言したことで、様々な人から非難が集中した。ネットでは芸術家のブログは炎上し、自宅には反対するグループが押し寄せ、それらをマスコミが取り上げ更に盛り上がり、収拾がつかない程に社会問題化した。

 それを受けて芸術家は新たなコメントをした。次の展示に使う犬は保健所で処分される予定の犬を使用することにします。助けたい人がいらしたらどうぞご自由に。次の展示が行われる日、展示される美術館では初めて開館前に行列ができていた。鉢巻をして襷をかけたいかにも抗議団体ですという集団や、興味本位で初めて美術館に訪れましたというような一般人、そしてそれらを面白可笑しく撮ろうする撮影人。100人以上の人が集まっていたので美術館はいつもより早く開館した。開館するや否や、皆早足で「犬の餓死」が展示されている前に集まった。前回と同じように動く元気もないような犬が元気なく伏せっていたが、そこに立ててあった看板だけは前回と違った。「助けたい人がいらしたらどうぞご自由に。」展示の前に集まった皆が静かに周りを伺う。多くの人が降りる停留所なのに停車ボタンを皆なかなか押さないバスの空気に似ていた。そんな中一人の老婦人が静々と手を挙げた。この犬を引き受けたいのですが。すると奥から芸術家が現れてわかりましたと犬の縄を看板から解き、老婦人へと手渡し、また奥へと下がっていった。縄を受け取った老婦人が屈み「もう大丈夫よ。」と犬の頭を撫でると自然に拍手が巻き起こった。

 しかしそんな中、芸術家は奥から飄々と現れ、また連れてきた犬を看板に繋いだ。どういうことだと詰め寄られるが特に気にすることもなく、今日は10匹連れてきましたから後9匹いますよ、と答えた。人々は唖然としたが一度できた流れは変わらず、次々と挙手する人が現れた。自分が引き受ける、いいや自分が引き受けると、我先にと手を挙げた。芸術家は機械的に受け渡しを9回済まし、その日の展示は終了した。マスコミはその様子を何度も放映し、国民もその美談に酔いしれた。

 芸術家はその後も精力的に展示を行ったが「犬の餓死」が完成することはなかった。どこの美術館でも用意した犬は全て貰い手が現れたからだ。それは数を増やしても変わらなかった。展示の度に生成され続ける美談が一大ブームを作っていたからだ。そしていつしかある噂が囁かれていた。あの芸術家は処分予定の犬達を救うためにこんな展示を始めたんじゃないだろうかと。

 しかしある時、芸術家は突然展示をやめた。ブームの最中だったから人々は不思議がった。そしてとある記者が尋ねた。「噂では処分予定の犬を救うためにこの展示をしていたとのことですが本当でしょうか?」芸術家は答えた。「いいえ違います。それにもしそれが目的ならば展示をやめるなんておかしいでしょ?」もっともな話だった。「では何のために展示をして、そして何故展示をやめられるのですか?」芸術家は答えた。「それはこれからわかります。そして私の準備はこれで終わったので展示をやめます。どうぞ皆様これから行われる出来事をお楽しみください。」展示は終わった。

 謎めいた発言は一時的に話題にはなったものの、その後も特に何かが起こるわけでもなかったので、すぐに忘れ去られた。そして数ヶ月後。奇妙な現象が起こり始めた。全国各地の公園などに痩せ衰えた犬が次々と放置され始めたのだ。「助けたい人がいたらご自由に。」と書かれた言葉と共に。引き受けたはいいものの、流行と偽善の気持ちから挙手した人が殆どで、数ヶ月もする頃には飼うことが嫌になっていた。どうしたものかと考えつく先は皆同じで、それが芸術家と同じような手段だった。直接捨てたり保健所に連れて行くよりも心が痛まない。悪いのは助けることができたのに、助けることなく見ていたやつだと。かくして「犬の餓死」は完成した。多くの人の手によって。

――――↑

どうでしょう。

一応この話おそらく前半部は事実。後半部は作り話でしょう。

あくまでおそらくですが。

こんな感じの話は現実にいくらでもありますね。

こんな比喩的表現にしなくては、

大きすぎて、というか目の前のことしか気にしていないから、

普段は気付きもしない。どうでしょう。

僕は犬がとても好きです。飼いたいと思う。

他にもそんな人はいくらでもいるでしょう。

餓死で死ぬ。毛皮を剥ぐために殺されている。虐待で死ぬ。

保健所で安楽死とは名ばかりの殺し方で、苦しみながら殺されている。

正確な数字は覚えていませんが、

日本だけでも年間何万という数の犬が保健所で殺されている。

こんな事実みんなわかっていますよね。

頭で意識していなくとも知っていますよね。

知っているつもりでなくとも何処かで本当は気付いていますよね。

でも何もしていない。

これが普通。

こういうように話題になると騒ぐ。

これが普通。

話題から消えたら誰も口にもしない。

これが普通。

犬が買いたい、と思う。

そうしたらみんな子犬をもらう。

大金を払って子犬を飼う。

これが普通。

保健所で無料で犬をもらえますよね。

保健所で死ぬ犬はかわいそうだから助けたいと言っていましたよね。

里親を探している人もたくさんいますよね。

でも子犬を買う、飼う、もらう。助けられる犬がいるのに。

これが普通。

別にこの「普通」が悪いとか、ダメだとか言うのではありません。

普通なんだから。ただちょっとした提示です。

ただ事実を提示されているだけなのに、

人は自分の行為を棚上げして非難する。

僕はこの思考が矛盾しており、可笑しいと感じる一方で、

自分も普段同様のことを考えているであろうとも強く感じる。

どうにかしたいとは確実に思っているのに、淡々と無視し、

考えれば可笑しいと感じることなのに、普通と受け入れている。

まぁ、「普通」だからいいのだけど。

それにしても、この文章を書いた人はとても秀逸だと思う。

まずこの「芸術家」。性善説など欠片も信じていないでしょう。

そして前述のようなジレンマを感じており、

そのことを大々的に提示はするものの自身で助けはしない。

この助けはしないこと自体も、提示したい内容に、

というかこの作品の中に組み込まれている部分だろう。

この部分はフィクションでないとすれば、実際の芸術家がやってのけたことだ。

そしてこの文章自体も、

一時期話題に上がり、多くのブログやサイトで激しく議論されていたものだ。

このトラックバックやリンクで話題にされ、

議論されることすらも、僕はこの文章に含まれており、

それが作者の意図ではないかと思う。

つまりはこのことについて書いて、話している人間も、

犬を引き取った、または反対運動をした作中の人物と同様。

僕のこの、多くの人に知ってもらおう、考えていただこうという行為も、

おそらくはこの「普通」の善意や無責任さを持った人達と同じ。

もうループ。みんな同じ。

こんなの書く暇があって、そう考えているのなら、

今すぐ保健所にいって犬を引き取れという話だ。

だけど僕はそうはしない。普通だから。

こんなことを考えていたら、

さらに数年前の「金魚ミキサー」も思い出しました。

似ていて違うものではありますが、

似ていないけど同じものでもあると思います。

もう4、5年前の話かな。

またしても知っている方が多いとは思いますが、一応。

――――↓

このミキサーの中に入った金魚(上部写真1、3)は、デンマークの・コリングにあるタラフォルト美術館で行われた展示会に出品されたマルコ・エヴァリスッティというチリ生まれのデンマーク人アーティストの作品だ。

全部で10台並べられたこのミキサーには電源が入っていて、スイッチを入れると作動する。当然のことながら、スイッチを入れれば中の金魚は挽き肉なって、中身は「オレンジヨーグルト」になってしまう。

しかし、電源が入っている事実は観客には明らかにされず、「お望みならばスイッチを入れてもかまいません」というメッセージだけが伝えられる。 見る人間の好奇心を刺激し、ついスイッチをいれたくなるように誘惑している。

実際、作品の制作意図を、

「人々に良識との戦いをさせたかった」

「見る人を生と死のジレンマに置きたかったんだ」

と説明している。

エヴァリスッティがこの作品を展示するのはこれが始めてではない。

3年程前にも同じくミキサーに入った金魚を出品していた。この時は2匹の金魚が挽き肉にされてしまったと聞いている。

これに動物愛護運動家は当然のことながら激怒した。

しかし、誰に怒りをぶつければいいのだろうか?

――――↑

作者でしょうか。

スイッチを入れた人でしょうか。

展示を許した美術館の館長でしょうか。

たしかこの後館長は訴えられますが、

無罪という判決をされたと思います。

さらに記憶が違っていなければ、

この金魚は助ける方法があって、

他のミキサーではない水槽に移すか、持ち帰ればよかったはずです。

壁にはビニール袋に入れられた金魚がかけてある。

全部持ち帰れば全部助かる。

どうでしょう。

スイッチを入れなければ本当に作動するのかはわからない。

でも作動すれば死ぬことは確実。しかしほとんどの人は助けないでしょう。

殺しはしないが助けないでしょう。

「どーせ作動しないでしょ」とか勝手に自分の都合のいいように解釈して、

その罪悪感から逃れようと前を通過するでしょう。

でも気になるから横目で見たりして、

ちょっと本当に作動するのか気になりはするから、

誰か自分ではない人がスイッチ入れないかなと、

期待もしたりすることでしょう。

それでいざ誰かがスイッチを入れ、

中の金魚がぐちゃぐちゃになって死んだら、

その人間をめちゃくちゃに非難することでしょう。

可愛そうだ、人道的でない、命を簡単に奪ってはいけないなどと。

期待したくせに、助けられたくせに、助けなかったくせに。

実に面白い。楽しいわけではない。興味深い。

人間、面白い。そして自分もその中にいるというのがまた面白い。

僕がいくら何を言っても人間の意見。

面白い。面白い。

さらにこれと同じようなことをした日本人もいる。

桑島秀樹という人物。アーティスト。アーティスト?

この人は自分で金魚をミキサーで殺し、その過程を写真で発表している。

これは物凄く非難されている。

前者のように、死にますよ、という提示で委ねているのではない。

自らですでに殺してしまっている。

これにはよく耳にするような、

「虐待だ」「ひどすぎる」という声が多数寄せられている。

ひどい、と思う一方で何が?と思う自分がいる。

だって牛、豚、馬、魚、鯨。殺して食ってんじゃん。

この人もその事態を示したいらしい。

殺すことを肯定する場合と否定する場合が違いすぎる。

内容にしたら同じなのに。

食べるためなら仕方ない、とよく聞く。

理由は?自然の摂理だから?

論理的にそんなものは弱すぎる。摂理の定義は?

定義によってはそれを無視しまくっている人間に、

そんなものは関係なくはないかい?

生活からはかけ離れすぎて、

動物を殺して食べているということをわすれているのではないかい?

どっかの馬鹿な小学生の話ではないが、

切り身は海を泳いでなんかいないし、胸肉も空は飛んでいない。

殺すシーンで気持ち悪いという人こそ、

そうして食べているのだと理解できていない証拠か。違うか。

知っていても理解しようとしていないのか。違うか。

徐々にわたくしの頭も暴走してまいりましたよ。

遊びで殺すなって?何故?

命はそんなに軽くないって?

たまたま踏んで虫を殺してしまうのと、遊んで殺すことの違いはなに?

此処で勘違いを恐れて言っておきますが、

僕は遊びで殺すことも、虐待することも決して肯定していない。

決して。強く非難したい立場であったりする。

自分が普通と思うことを、見直しだけである。話を戻す。

猫が特に食べもしない虫を殺すことも非難するべきか?

普段しようしている生活の進歩のために死んでいく動物はいいのか?

生活の向上など言い訳で、詰まるところ、

人間が、

大人が、

大人数になって、

ちょっと頭を使って、

自然で遊んでいるだけじゃないか。

違うか?

宇宙船で飛んでいったチンパンジーは?ネコは?

化粧品テストで薬品を眼にかけられ続けているウサギは?

同じようなテストで体の半分の皮を剥ぎ取られてしまったイヌは?

脳の仕組みを調べるために、頭を開かれ、

脳味噌むき出しの状態でそれに電極を刺されているサルは?

此処の動物を全てカタカナで書いた理由は?

食べている動物だってされていることは同じだろうが。

海で泳いでいた魚はまだいいさ。

狩りで捕まってしまった鹿もまだいいさ。

それはこいつらが負けたから。ドジ踏んだから。

食べられちゃうの。死んじゃうの。自分が悪い。

じゃあ牛は?豚は?養殖の魚は?

今まで優しくしてくれて、ご飯をくれて、人間優しい、とか思っていたのに。

ある日突然裏切られて殺されるの。

もう生まれた瞬間から食料になることが決定しているの。

個人的にそのことよりも裏切られることの方が可哀相。

本人達はそんなこと思っていないかもしれないけど。

食べるために殺す。

手足を縛られて逆さに吊るされた状態で、

腹を刺されて生きたまま血抜きをされるヤギ。

内臓を綺麗にするために油の中を泳がされるドジョウ。

生きたまま腹を捌かれて卵を出され、

そのまま生き作りとか言って体バラバラにされるサカナクン。

首つかまれて、クルンッてあっと言う間にクビチョンパなニワトリ。

固定されてチューブで食い物流し込まれ、

太らされ続け肝臓を取られ殺されるアヒル

何が違うんかね。残したら遊びで殺しただけになりませんか?

残した人が悪いんですか?それ食べなくても生きられませんか?

殺しておいてゴミになります。それでいいのかね。

自然のバランスのため?絶滅させてよく言いますね。

そんなものに人間の介入は要りません。

まぁ言っている人物はそれぞれ違うのでまとめても何の意味もありませんが。

また勘違いを恐れてみます。

別に決して現状がダメだとも、肉食否定なんかもしていません。

ただ不思議だよね?興味深いよね?と言っているだけ。

上述の全てに対して、

当然意見の違う人もたくさんいるだろうし、

僕の意見を強く批判したい人もいると思います。

一向にそうしてもらってかまいません。

かまわないというか、是非してもらいたい。

思ったことがあるなら何でも。

八つ橋についてのコメントがあんなに、

予想以上、必要以上に伸びるくらいなのだから。

というか全部読む人は少ないかなと。

そしてこれから読み返してみますが、

内容がぐちゃぐちゃでまとまっておらず、

言いたいことが一貫していなかったらすみません。

読みづらく、誤解させてしまったらすみません。

以上、特に言いたいことはない。

僕は歪に歪んでいます。ちゃんと自分で知っています。