連鎖
意思など本当にあるのだろうか、と最近考えている。
思考など本当にしているのだろうか、と最近思っている。
本当に選択などしているのだろうか。
普通の人ならば、
普段自分の意思によって考え、行動をしているだろう。
いや、そう思っているだろうと思う。
デカルトも「我思う、故に我あり」と、
思考の存在を肯定しているし、
ただ一つ存在を確信できるものだとしている。
その根拠は、
現に「考えている」という事実に由来しているわけです。
では、本当に我々は「考えている」のでしょうか?
「我々」と言ったところで、
他人の頭の中など到底わかりはしないので、
当然自分についての話になるのですが、
今現在この文章を打っているという事実がある以上、
おそらく一般的な意味で言えば、確実に「自分」で「考えている」。
そして「行動」をしている。
しかしここでは、それを問いたい。
「考える」とは、能動的なものである。
おそらく、受動的に「考える」などという事態はない。
たとえ、「考えろ!」と命令されたところで、
考えるかどうかは個人の自由であるので、
「考える」とは、思考することを自らで選択しているのだ。
体を通して思考した結果を外部に表すもの、それが「行動」。
しかしそのなかには例外もあり、「反射」には思考は伴わない。
というのが、一般的な認識だろうと思う。
これが大部分の人の直観には反することはないだろう。
では、
何度も繰り返すが、本当に「考える」ことを選択しているのだろうか。
つまり、
その「考えている」という事態が本当は、
ただ、外界からの刺激、もしくは自らの思考した結果に対しての、
連続的に起こっている「反射」である、とは考えられないだろうか。
例えば、
非常熱いものに触って、熱いと考え、手を引く、わけではない。
この場合は、
非常に熱いという刺激によって、考えずに、手を引いているのである。
これが思考においても同様のことが起きているが、
行動のように、眼で見えはしないし、
行動について後で思考し直すことができるように、
思考した結果について、監督の役目を果たすものが、存在しないので、
知ることができないだけなのではないだろうか。
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ここまで、何となくでも理解していただけているでしょうか?
会話にて説明すると簡単なのですが、
文字で伝えようとすると非常に難しいです。
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少し考えて見れば、
自分が行う全ての行動に理由や原因の無いものなど、
無いということはわかると思います。
なんの理由もなく、
自分が脈絡のない行動を起こしたように感じたとしても、
それはわかりずらいだけで、確実に何かの刺激に対する反応である。
確実に。
一見意味や理由のないであろう小さな癖なども、
し始めた原因や理由はある。
同様に、思考においても思考内容全てに理由や原因がある。
それら全てが「反射」である、という話です。
そこで、思考、行動のすべてが「反射」であるなら、
全員が同じ様に考え、同じ様に行動しないのはおかしいのでは?
と、思うかもしれないが、そんなことは無い。
それは、生まれた瞬間から(正確には生まれる以前から、だが)
個々人の受ける刺激が違うからである。
刺激に対する行動の差異とは、簡単にいえば「性格」の違いであるが、
ここでは、その「性格」というものが、
過去の受けた刺激に対する「反射」の無数に続く連続によって、
作り上げられてきた回路の集合だということが言いたいのだ。
ここまでを確実に理解していただけたならば、
その反射の連続というものが、
第三者による観察的視点から言えば、個人に属するものではない、
ということがわかるだろうと思う。
わかりづらい方は、
単細胞生物などを例に考えるとわかりやすいかと思う。
この連続が、個人に属していないのだから、
それは偶然、必然といった単語の意味にも、密接に絡んできます。
ですがそれは、ただでさえ長い今回の日記が、
さらに途方もなく長くなることになるので、
今日はこのくらいにしておきたいと思います。
簡単に言えば、偶然と必然は観察点の違いであり、
その実両者の意味するところは、同じだということです。
もし、意見、質問、反論などありましたら、
気軽にコメントよろしくお願いします。
長々わかりづらい文章を読んでいただき、ありがとうございました。
そして、すみませんでした。
ちなみに、
今日、今現在、授業をサボって、パソコンに向かって、
こんな日記を書いているのも、自分自身が「選択」したわけではなく、
周りの様々な連続による「反射」の結果にすぎないので、
僕が悪いわけではないのです。
刺激達が悪いのです。
なんて。