連続

十字路を眺めていると、

たくさんの人たちが、四方向へと歩いて行きます。

それぞれ、確実に違った理由があって、

意味があって、原因があって歩いて行く。

その人達にも、おそらく自分が経験してきた時間と同等。

もしくは確実にそれ以上の時間を経験してきているわけで。

7500日くらいだったり、30000日くらいだったり。

1000日にも満たなかったり。

それはただ過ぎたわけではなく、何か出来事の連続だったはず。

日々膨大な量の原因と結果の連続。

またその周りにいる人間。

一番近いのは家族か。

一人の人間には関連する人間の時間も詰め込まれていて、

遺伝子の連続だけ考えるにしても、それはまた膨大なもの。

その人が着ている服にしても、

選んだ理由、手に入れたという事実にも時間の経過が確認できるし、

服を作った、デザインした、染めた、縫った、そういう機械を作った、

それを設計した、部品を作った、その部品を作る機械を作った、

流行を作った、材料を仕入れた、それを作った、輸入した、

書ききれないような、想像もつかないような数の人たちの時間がある。

その範囲は非常に簡単に日本から出る。

その想像もつかないような数の人たちの周りにも、

またさっきと同様に、親という連続や、

他の人間との相互関係があるのだから、

もう気が遠くなるような、脳みそ崩れるような。

様々な世界の存在が、時間が、原因が、結果が、

気が狂いそうになるくらいに、美しく露呈。

それはいとも簡単に、人間などという小さな枠からはみ出して、

ビーグル犬にも、アゲハ蝶にも、そこらの名前も知らない雑草にも、

生物ですらないコンクリートの壁にすらも、当然辿り着いて、

また新しい連続をつくる。

そんなことを考えながら、十字路を見ていると、

視界に入るもの全てに、

歴史と呼ぶのに決して大げさではないものがあることを実感する。

それは自分の意識が此処からは離れてしまうような感覚、

目の前のスクリーンに映った映画をみているかのような。

素朴実在論は全く肌に合わないのに、これでは肯定するみたいだが、

観念論に独我論ほど過激ではないがそんなようなものをくっつける、

知覚されないものは、存在しないことと「同義」という、

現象主義ともまた違った、そういったことを考えていました。

そんな感じでフワフワ考えていたら、

8時集合の用事があったことを思い出した。

わけわかんなくて、グダグダですみませんでした。

行ってまいります。