『笑い皺 一人で過ごす たたむ春』

もうあれから何度目の春だったろうか。

当たり前になってしまっていたのか、甘えすぎてしまっていたのか、 何にせよ、この少し広めの部屋にはもう私一人しかしかいない。

もう一人でいられないと悲しんで友達に泣きながら連絡するような年でもない。

いや、もともと自分はそんな性格でもなかったような気がする。今までこんな別れがあったこともないからわからないけれど、もしかしたらこんな私の性格が可愛くなかったのかもしれないと、今となって思う。


一人になって特にこれといって困ることもない。

仕事もしているから生活はできる。それだけで十分かもしれない。気が向けば一人でお酒を飲みに行くこともできる。働き始めてから連絡を取ることは減っているけれど、気のおけない友達もいる。

遠いことではあるかもしれないけど、一人で死んでいくのだろうかと思うとさみしく思わなくもないが、そんな年でもないし、何より働いているのだから稼ぎの面で頼らなければならないこともないのだから問題ないのだ。

子供は欲しかった、ような気がする。

それがあの人の子供だったのか、自分のこともならそれでいいのか、今考えてみてもきっとよくわからないから考えないことにする。

不思議とさみしさはあれど、悲しさはない気がする。

実際彼がいなくなった日からまだ一度も泣いてはいない。

楽しいと思うことないけれど、日常はたんたんとこなしている。いや、ただたんたんとこなしているだけでもなく、遊びに行ったり、甘いものを食べたり、女の子らしい日々だ。

でも女の子らしい日々をたんたんとこなしているのではないかと言われてしまうと、まさにその通りのような気もする。

彼といた時間は違ったのだろうか。

彼といる、という時間はたんたんとこなしていただけではなかっただろうか。

彼といる、ということを模範的に行っていただけではなかったと言えるだろうか。

そんなことを考えたところで私の彼以外との時間を知らないのでわからなかった。

彼のくれたこのぬいぐるみに喜んで、彼のくれたこの時計をつけて。

私のぬいぐるみをもらって本当に嬉しかっただろうか。あの時はきちんと喜ばなければならない、私は今はきちんと喜べているのだろうか、そんなことを考えていたように思う。

嬉しくなかった訳はない。お揃いの時計も嬉しくなかった訳がない。嬉しかったからつけていた。嬉しかったから毎日ぬいぐるみを見ていた。

でもそれは他の人が恋人にプレゼントをもらった時と同じように嬉しかったのだろうか。

そんなことばかり気にしていたような気がする。

私は何に怯えていたんだろうか。

嫌われることに怯えていたのだろうか。

相手が私以外に好きな人が出来たらそれはそれで仕方のないことで、もしそうなったら別れようと、そう聞き分けの良いように常に考えていた。

それは当然のことだ。

お互い好きあっていないのなら、一緒にいるなんてことは不自然だから。

だからあの日も私はすんなりと受け入れた。

当然のことだから。

そうなって思った。

私は彼が好きだったんだろうか。

一緒にいるのが当たり前だから一緒にいて、変化が怖かったからただ離れなかったのだろうか。

そうなのかもしれない。

今の自分の感情を味わってみれば、そうなんだろうかなという思いのほうが強くなる。

でも一緒にいる時間は好きだったのだと思う。

だからまだ彼にもらったこのぬいぐるみも時計も、冷え性を気にして買ってくれたこのホットカーペットも、何かあるごとにくれたこの字の汚い手紙も、プレゼントの包装紙も、捨てることができないで部屋の隅を占領しているのだ。

よく考えてみれば一緒にいる時間は楽しかったのだろうとも思う。

彼は私の笑顔が好きだといった。それに対して私は普段からあまり笑っているつもりはなかったから、そんなに笑ってないじゃないと返したと思う。そんな私に彼は驚いてよく笑っているよといった。

そのあと何かをしているごとに、彼は、ほら、いま笑っているよと言った。私はそんなつもりはないのに笑っている自分のはずかしかったのか、よくわからないが私はその度に少しだけ嫌な気持ちになった。

だから彼に私はそんなこといちいち言わないでと言った。

あの時も、いつも、私は楽しかったのだと思う。いつも笑っていたのだと思う。

だからこのプレゼントが捨てられなくて、今になってやっとこんなことを思い出しているのだと思う。

やっぱり私は彼が大好きだったのだと思う。

だから今になって彼のアドレスがなくなった携帯を何もできないとわかっているのに握り締めているのだと思う。

だから今になってあの時も泣いて引きとめることが出来なのなら、今また少し不機嫌になりながら彼の前で笑っていたのだろうかと考えているのだと思う。

だから今になってもし苦手な料理を覚えたら彼が少しでも私を気にしてくれるだろうか、なんて女の子らしい可愛いことを思っているのだと思う。

こんな湿っぽい気分は私には似合わないと思い直して、洗面所へ水で顔を洗いに行った。

まだ冷たい春の水が、頭をスッキリさせてくれる。

顔をあげて、鏡に映る自分の顔。

年をとったからなのか深くなった法令線

これは笑い皺なのかな、なんて可愛いことを思った時、あの日に流すはずだったろう遅すぎる涙が目から止めどなく溢れた。

涙は笑い皺にそってゆっくり流れ、顎から落ちていった。